なぜ、能の大成者・世阿弥は「不遇の末路」をたどったのか? 将軍・足利義教に嫌われた理由とは
日本史あやしい話26
■世阿弥たちを冷遇した義教
1408年に義満が急逝。跡を継いだ義持は、猿楽よりも田楽が好みで、田楽新座に属する増阿弥を贔屓にしたから大変。世阿弥は、将軍家からの恩恵を受けられなくなってしまったのである。
さらにもう一つ、世阿弥の後継者を誰にするかということにも、大きな問題があった。世阿弥には元雅という実子がいたが、元雅が生まれる前、甥にあたる音阿弥こと元重を養嗣子にしていたことが指摘されている。
世阿弥は結局、実子である元雅に観世大夫の地位を継がせたが、将軍・義持亡き跡を継いだ義教は、音阿弥の方を寵愛。絶大な支援を受けたことで、世阿弥・元雅親子の方は冷遇され、活動の拠点すら次々と失って窮地に立たされたのである。
そんな最中の1432年、元雅が巡業中の伊勢安濃津において急逝。一説によれば、将軍・義教が刺客を放って殺させたとか。前述のように、世阿弥の祖母が南朝の楠木正成の姉だったこともあって、元雅が南朝方の隠密だと疑われたとまことしやかに語られることもあるが、真相は不明である。
元雅の子・十郎が、南朝方の中心勢力であった越智氏の後援を受けて、越智観世として活動していたことも関係しているのかもしれない。義教が贔屓にしていた音阿弥を後継者としなかったことに、癇癪持ちであった義教が腹を立てたとも考えられそうだ。
■佐渡島に流された世阿弥の思いとは
世阿弥親子に降りかかった悲運は、それだけでは収まらなかった。元雅が亡くなった翌々年の1434年、今度は世阿弥自身が、佐渡島への流罪を申し渡されてしまったのだ。
今もって、その理由は不明であるが、一説によれば、南朝方であった越智維通らが引き起こした大和永享の乱に連座したものとも。元を正せば、実子の元雅を後継者にしたその腹いせとも考えられなくもないが、その真意は、もはや探れそうもない。
ともあれ、齢72の老いた世阿弥は、訳も分からず佐渡へと流されていった。出港地は、若狭の小浜。ここから佐渡島の大田の浦(松ヶ崎の入り江)に上陸した後、雑太郡新保を経由して、最初の預り所となる万福寺へとたどり着いている。食事は慎ましいとはいえ、散歩も自由で、思いの外、気楽に過ごせたようである。
その後、預り所が泉の正法寺に移ったと見られるが、以降の動向は不明。同島で没したとも、配流を解かれて、娘婿の金春禅竹の庇護のもと、妻と二人でひっそりと暮らしたともいわれることもあるが、これまた定かではない。亡くなったのが1443年8月8日だったことだけが伝えられているようだ。
ちなみに、世阿弥を不幸に陥れた将軍・義教(義持の弟)が亡くなったのは、その2年前のことであった。幕府の長老格であった赤松満祐の邸宅において、音阿弥元重が能「鵜羽」を演じている最中のこと。手にかけたのは、赤松氏配下の安積行秀であった。
有力守護大名排斥の動きに反発したようである。癇癪持ちで、むやみやたらと人の首を撥ねたり領地を没収したりしたことで諸将から恨みを買っていた義教も、ついにその報いを受けたというべきか。佐渡島にいた世阿弥が義教の死の知らせを受けたかどうかはわからないが、知ることができたとすれば、胸のつかえも、多少楽になったに違いない。
世阿弥が同島への配流中に、『金島書』なる書を認めているが、その中の一節「あら面白や佐渡の海 満目青山なほ自ら その名を問へば 佐渡と云う黄金の島ぞ妙なる」が、心に染みる。
修羅場をくぐり抜けた末の、突き抜けたような境地に達した世阿弥、彼がどうしてそこまで達観することができるようになったのか、またもや考えさせられてしまうのだ。
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